• 羽中田昌

23年記 ボールは正しく転がった。♯7


7「あっかんべー」



それは苦悶に喘ぐといった深刻なものではなかったが、悶々としていたころ。


バルセロナに渡り半年と少しが過ぎ、それまで精力的に歩き回っていた生活速度がじょじょに弱まりつつあった。出かけるのは語学学校とキヨスコと近くのバル(カウンターのある簡易レストラン)とカンプ ノウとサリアぐらい。ピソ(アパート)から歩いて15分の荘厳な佇まいに刺激をもらっていたサグラダ・ファミリアを見上げに行くことも減っていった。

努力もしていないのに、「ダメだ、ダメだ、俺は語学のセンスがないんだ」、と自分の語学力のなさを嘆いてばかりで、ピソに閉じこもることが増えてしまった。いっちょまえにスペイン語の壁とやらにぶつかっていると思ったり、一流でもないのにスランプに陥り、生き生きとしているまゆみをうらやんだりして、フットボール以外、なにも気が進まない自分が情けなかった。

半年やそこらで、壁もへったくれもないのだが、文法や構文の正確さに執着して、何気ない挨拶程度のスペイン語の会話でさえ怖かった。どこで身につけてしまったのか知らないが、鼻くそみたいなプライドが邪魔をしたのだろう。ただ言い訳ばかりを考えていた。

35年前のセピア色のかすかな記憶中に動く、あのころの私はあまり元気がなかった。



サリアはバルサと同じリーガ・エスパニョーラ1部所属のRCDエスパニョールのホームスタジアムだ。現在のホームは郊外のコルネージャに移転したが、当時はほぼ中心のサリア地区にあった。

地中海を背に山塊に向かって、宮本武蔵が左から右へ刀を斜めにザッと振り下ろすようにバルセロナの街を貫くディアゴナル通り。その上手にある高級住宅街がサリア地区。この古びた戦いの舞台は、障がい者と介護者はタダで観戦できるとあって、2月以降エスパニョールのホーム試合には、ほぼすべてまゆみ同伴で足を運んだ。一方のカンプ ノウの車椅子席は有料でなおかつ高額とあって、バルサはもっぱらテレビ観戦だった。

しばらくすると、まゆみは「ポブレ(貧相)で、ひたむきな選手たちを応援する」と言って、あっさりエスパニョールのファンになった。特にキャプテンのラルディン、GKのトニ、監督のカマーチョなんかがご贔屓。知らぬ間にマフラーも買っていた。

クラブとしてカタルーニャの地方政党を支持するなど、カタルーニャ民主主義に基づく地元で圧倒的な人気のバルサに対し、あくまで中立の立場をとりクラブ名に王室公認のレアルを掲げるエスパニョールの人気はいま一つである。

そういえば、エスパニョールファンのまゆみとバルサファンの私が激しくというか、いま思えば若気の至りとでも言うのか、口論したことがあった。ことの発端は、判官贔屓のまゆみの一言。

「弱いけどエスパニョールの方が速いし、行ったり来たりして、見ていても楽しいよ。バルサはなんだか眠くなるんだもん」

自分が完全否定されているようで、カチンときた。まゆみはフットボールのことが何もわかっていない、これだから素人は困ると思いつつ、私は冷静さを装って丁寧に反論した。

「速ければいいってもんじゃないんだ! あれは速いだけでフットボールじゃないよ。相手の良さを消して、守ってカウンターだけじゃん。まゆみちゃんは、フットボールは芸術だってこと、知ってるのかなー」

「ふん、知らない、あっかんべー。それにバルサはお金かかるし、タキージャ(チケット売り場)の態度がアンティパティコ(不親切)で、タカーニョ(おたかい)、電気屋のおじさんもバルサはカネ、カネ、カネって言ってたもん!」

覚えたてのスペイン語を並べて、まゆみなりに応戦してきた。それにしても23年前のこの口論からも、いかに私がフットボールのことを知らなかったのかが、よくわかる。

フットボールにはいろいろなスタイルがある。選手の特性、レベルによってそのスタイルを使い分けるのが当たり前なのに、その本質をまったく理解していなかった。スタイルとスタイルの戦いがあり、これがフットボールの発展の鍵を握るとも言える。

当時は、例えばエスパニョールのカウンターアッタクとバルサのポゼッションという構図があった。それぞれの攻撃の形から守備の形が生まれ、逆もまた真なりで、守備の形から攻撃の形が生まれた。

フットボールのスタイルは、そのせめぎ合いによって、最近よくネットでも目にするポジショナルプレーvsストーミング、あくまでも選手が主役だが、ペップvsモウリーニョ、ペップvsクロップ、ペップvsシメオネといった構図へと進化している。最近のモウリーニョは時代遅れと言われているが、フットボールは、またなにが起こるかわからない。

かつての私はそれを見ていなかったのだ。いや、正直なところ、毎回エスパニョールの試合を楽しんでいたので、どこかで感じてはいたものの、ただ知らなかっただけなのかもしれない。人は知らないことは見えにくい。クリフの攻撃的なスタイル以外はすべて否定し受け入れようともしなかった。じょじょに、バルサも面白いかも、と言うようになったまゆみの方の頭が柔らかく、よっぽどフットボールを理解していたようだ。私のフットボールの見方が変わり始めたのはこのころからだったと思う。


まゆみの意外なフットボール熱は、思わぬところへも波及した。

バルサではなくエスパニョールを応援する珍しい東洋人女性がいると、サリアで応援するまゆみの姿がニュースで大々的に紹介され、お陰で車椅子でも入りやすい、近所のお気に入りのバルに出入りできなくなった。熱狂的なバルサファンのマスターの前に顔を出せなくなってしまったのである。

バルの前を通るとき、顔を道路側に向けて急ぎ足になったのを思い出す。マスターはニュースに気がついていたのだろうか。それは確かめようがなかった。

実は外出を控えるようになったのは、予想以上のスピードで減っていく貯金通帳の残高に怯えていた、といこともある。情熱や好奇心だけでは夢の階段を登っていけないことを知り、私は今という時間を生きていなかったようだ。ただ、なんとなく自分の頭の中で明るい未来へタイムトラベルして現実から逃げていた。


5月17日、アトレティコとの戦いで敗れたバルサは2シーズン連続でリーガのタイトルを失った。ドリームチームを率いて初の欧州チャンピオンに輝いてから4年の月日が流れ、翌日、クリフ(クライフ)がテレビ画面の向こう側で涙する姿が映し出された。

昼のニュースの模様は、クリフの悔し涙とともに滲み出るような悲痛な言葉の響きを私に伝える。それは内容を深く理解したということではない。バルセロナに渡って半年の語学力は、記者会見のクリフの言葉をほとんど理解することができなかった。

それでも、監督解任、バルサを去る、ということぐらいは、なんとか解り「やっぱりダメか。どうしようこれから、俺はどうしたらいいのか・・・」と擦り切れるような声でまゆみに訴えていた。行き場を失い、尻尾を垂らす野良犬のよう。「大丈夫だよ。なんとかなるよ」、不安気にまゆみの小さな背中は震え、絞り出すような、どうすることもできない言葉は重かった。

前の晩、虫の知らせか、なけなしの金をはたき、私はこのクリフ最後の采配をカンプ ノウで観戦していた。これも運命のような気がする。試合の内容はあまりよく覚えていないが、現在、アトレティコ監督である当時現役選手だったボランチ・シメオネにバルサの良さはことごとく消された。また、バルサは自分たちの攻撃のための守備ができず、攻撃と守備がつながっていなかったのではないか・・・

「四面楚歌」、いま思うと、この状況で使う言葉ではなかったが、自分に向けて発した独りよがりの四字熟語が胸に突き刺さった。早すぎるが、もう限界なのかな、とさえ思えた。「お腹すいたでしょ、何か食べようか」と微笑むまゆみの前で、私は長いこと下を向いた。


1996年6月30日に引っ越しをした。

ワクワクドキドキはない、ただ、もう動くしかなかったのだ。市街のほぼ中心のジローナ通りのピソから西の外れバレンシア通り28番地に動いた。まゆみが新聞の片隅に見つけた小さなピソ。家賃が相当下がった分、ここには洗濯機も備え付けの家具もない。洗濯は手洗い、家具はもらうか拾う。そのかわり、観光客では味わえないバルセロナの本当の生活がそこにはあった。四面楚歌ではなく、四苦八苦、青色吐息、五里霧中の私たちは、開き直るしかなく前へ進んだ。今を生きると決めた。

引っ越しから1ヶ月後、まゆみを一人バルセロナに残して、私は一時帰国をする。それはバルセロナでの生活を続けるための仕事探しが目的であった。



To be continued

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