• 羽中田昌

23年記 ボールは正しく転がった。♯4


4「ジローナ通り156番地から」




よく歩いたーー。

エンサンチェ(拡張)地域、ジローナ通り156番地のピソ(アパート)を拠点にまゆみと積極的に歩き回った。

見るもの聞くのもすべてが新鮮で、どこへ行くのも、たとえ近所のキヨスコに行くのでさえ冒険だった。地図を確認し、必要なスペイン語会話を準備してから出かける。

「おじさん、エル ムンドとルッキーストライクちょうだい」

そう言って、ぴったりのペセタ(スペイン通過)とスポーツ新聞&タバコを交換する。直後、私はおじさんの視線から素早く逃げて、ぎこちないが元気いっぱいの声を上げる。

「ありがとう、さようなら」

達成感とスペイン語からの逃避がバランスよく調和する瞬間だ。子供の頃に感じた、あのワクワクドキドキの緊張感とともに車椅子を漕ぎ続けた。不安や心配、未知なるコトや予測不可能なコトに体の底の好奇心が震えた。

サグラダ・ファミリア(聖家族教会)まで15分、語学学校まで25分、地中海の浜辺まで1時間、そしてバルサのホームスタジアム、カンプ・ノウまでも1時間。バルセロナに挑み、バルセロナを精一杯感じた。歩くスピードで生きなければ勿体ないと思った。


ゆっくりの方が結局速いのかもしれない、と最近感じている。これは、ずっと突っ走ってきたが故の感慨なのか。


物理的にもバルセロナの路はとても歩きやすかった。大型犬のペットの糞は気になったが、よく歩道が整備され、歩道から車道への段差も斜めに解消されている。旧市街の石畳には苦戦したが、新市街のエンサンチェにはほとんど石畳は無い。ローマを歩いたとき、石と石の隙間に前輪が落ち前に転けたことがあるが、憧れの石畳は車椅子には難敵だった。でも、やってみて気がつく、転けてみて学べたことがたくさんあった。


未完成の世界遺産サグラダ・ファミリアには特によく足を運んだ。ほぼ一日置き。

ピソを出て、まず地中海側、つまり左方向に40メートルほど下る。

バルセロナのエンサンチェは碁盤の目のように通りが整備され、その碁盤の目の中の一辺80メートル程のブロックのことをマンサーナと言う。建物が四角い空間を見下ろして林立している。空間の1階部分は当初の計画では中庭だったが、現在は、ほぼ倉庫やピソを拡張するなど建物で埋め尽くされ、ここにも商業都市の顔を覗かせている。

クルサリョラ山塊から地中海に向かって緩やかな傾斜が伸び、だから「下る」と表現した。その角にGSがあり、そこを左に折れてバレンシア通りを進む。あとは真っ直ぐ、6つのマンサーナを通り過ぎたところの右手がサグラダ・ファミリアだ。

Family Martではない。ヘタな冗談はほどほどにしなければいけないが、角のGSや当時一つだけあったコンビニは妙に明るく、柔らかい黄色の間接照明が多いこの街には似合わなかった。また、良い悪い、必要か不必要かは別にして、路傍にタバコや飲料水の自動販売機が無い。これは治安の問題で、日本の自動販売機は平和の象徴だと感じる。

聞くところによると、最近のバルセロナの夜は非常に明るいとか。石畳が残る旧市街が煌々と街灯に照らされるのを想像すると残念な気分になる。引ったくりなどの犯罪予防につなげているそうだが、複雑だ。活気のある営みやギラギラしたエネルギーまでも奪ばってしまいそうだ。「自分に責任を持って歩け、ぼーっとしてる方がいけない」とバルセロナの友人アグスティンに注意されたことがあった。


まゆみと見上げていた100メートルの8本の塔。

モロコシなのかアスパラなのか実に奇妙な形、不気味な彫刻、石造の色と質感、必要以上の高さ、設計した天才ガウディの内なる思いとは。私は見上げながら何をいったい考えていたのだろう。正直、思い出せない。おそらく何にも考えていなかったのだ。「クリフも見上げたかなー」、そんなところである。

ただ、そびえ立つ教会を前にすると、謙虚になれたのと非力な自分を実感できたのはよかったと大袈裟ではなく言える。そんな中、私の心に一つだけ刻まれたことがある。ゆっくり、ゆっくり石を積み、コツコツと彫刻を掘りながら建設が進み、その少しづつの変化が語りかけてくれた。

「この教会は、いつか完成する。この世の中に完成しないものはない。諦めず、時間をかけて一つ一つ丁寧に積み上げていけば、なんだって完成する。まだまだ時間はある。失敗を恐れるな」

時間は可能性だと知った。


ガウディ(カタルーニャ語だとアントニ・ガウディーと伸ばす)は1852年、当時カタルーニャ第二の都市レウスで生まれた。子どもの頃、小児リュウマチを患っている。教育熱心な家庭に育った好奇心旺盛な天才は、その後、バルセロナの大学まで進む。もちろん建築の学校だ。だが成績は至って低調。興味のないものには目もくれなかった。

そんなガウディに苦労が襲いかかる。母と医者になったばかりの兄をほぼ同時に失った。おそらく病死だろう。これによって、絶望の淵に立たされた父と姉、ついでに叔母や姪までもバルセロナで面倒をみることになる。結局、設計事務所でアルバイトをしながら大学を卒業した。

そのバイト時代に出会ったのが、将来、パトロンとなるグエル。ガウディの作品にあるグエル公園やグエル邸でも馴染みの名前だ。才能は出会いと偶然の一致が育み開花させる、そう思うのは私だけだろうか。サグラダ・ファミリアの設計もほんの僅かな期間働いた設計事務所の経営者の紹介であった。

ガウディは運を味方についつけていたに違いない。ここで言う運とは偶然の一致を見逃さず、その偶然を才能発揮の場へと変化させていくこと。

1854年バルセロナ市の城壁が取り払われたのが、ガウディの運命を大きく転換さたと言ってもいい。それまで市外地の野っ原だった場所が、ガウディの成長とともに拡張整備されていった。そこに大資産家のグエルをはじめとするブルジョワたちが競って教会やピソを建設したのだ。これが建築のモデルニスモ様式確立の引き金となった。

こうして、いつしか大建築家にまで上り詰めたガウディ。その後、天才はサグラダ・ファミリアの建築に没頭していく。ただひたすら完成に向かって突き進む日々。食べるものを最低限に抑え、着るものも気にせず、時間は祈りと建築だけに注がれた。晩年、その身形から乞食にも間違えられたが、「神の建築家」と称された。

空高く延びていく塔は、やはり神のもとへと近づきたかったのだ。何かを目指し続ける者は、やがて内なる神に会いに行く、と聞いたことがある。

1926年、ミサへ行く途中だった。路面電車にはねられた神の建築家は73歳でその生涯を閉じた。事故直後、そのみすぼらしい風体から貧民用の病院に運ばれた。しかし、カタルーニャの人々が愛したガウディの葬儀は、それは盛大なものだったという。


2016年3月24日は肺癌で他界したクリフの命日である。私はその翌日、葛西の練習グランドで黙祷を捧げた。心の拠り所を失い胸のあたりに、ぽっかり穴が空いたようであった。いつか会って話がしたいという夢も消えてなくなり、フットボールの天才は空の上の神になった。

そういえば、オロットに住む知人から、クリフのオフ・ザ・ピッチ(ピッチ外)の話を聞いたことがある。


To be continued


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