• 羽中田昌

23年記 ボールは正しく転がった。♯11


11「楽しき長屋の人々 4」





一時帰国はもう一つ、車椅子の新海 学との運命的な出会いを演出してくれた。

偶然、私の帰国を知った高校時代の恩師に「勇気づけてやってくれ」と頼まれ、スノボーの事故で脊髄に大怪我を負った彼を見舞ったのは8月22日。まゆみと長屋の仲間たちが待つバルセロナに戻る数日前のことだった。

6つ歳下の新海くんは病室のベッドの隣で車椅子に乗って私を待っていてくれた。穏やかな笑みを浮かべて。これが、私たちの初顔合わせとなる。よく、人を判断するには一度しかない第一印象を見るのが大事だと聞くが、20年前のこの瞬間、私は優しさに包まれていたような気がする。勇気づけに行ったはずが、逆に癒されたということになるのかもしれない。

この後すぐに喫茶室へと場所を変え、1時間ほど愉快に語り合った。サッカーの話、バルセロナの話、事故の話、それから新海くんのやんちゃ時代の話まで聞いた。

「怪我をする前も両親には迷惑かけっぱなしでした。つい最近になって、ようやく両親を安心させてあげようかと思っていたらこの様です。しばらく我慢してもらわないとなりませんが、まずは自分のやりたいことを見つけて、いつか必ず親孝行するつもりです。

今回、こういうことになって、いろいろな人に助けられました。両親や知人や友だち、そして、羽中田さんにも。ぼくもがんばって早く人の力になりたいですね。羽中田さんがぼくのところに来てくれたように。だから、悲しんでなんかいられませんよ」


人の力になりたい、深い言葉だと思った。

あー、新海くんは、たくさん人に愛されて、これまで生きてきたんだな、と感じた。お見舞いに行く前にお目にかかったご両親の顔も目に浮かんできた。人の力になれたら、そんなに幸せなことはない。人の力になりたい、と思えるだけでも幸せなことだ。私は、彼ならやれると確信を持って、病院を後にした。

その2年後、私たちはバルセロナで再会を果たしている。約束通り、遊びに来てくれたのだ。車椅子に乗って初めての海外旅行は大いなる未知との遭遇であり、車椅子人生の初挑戦だったのだろうか。ガリシア料理の茹でたプルポ(タコ)をつまみに白ワインを飲む。店を出ると旧市街の石畳を日本人二人の車椅子が歌声と共に進んだ。車椅子の酔っ払い運転である。歌声が石造りの街並みに響きわたり、私たちはほろ酔い加減で友情を誓った。

20年以上に及ぶ新海くんとの歴史を思い起こしながら、帰国後の暁星高校コーチ時代、グランドで林監督に質問されたことを思い出した。

「羽中田は選手を愛せるか?」

「はい、愛せます」

「なら大丈夫だ」

ずっと、愛せます、と即答できた自分が不思議だったが、もしかしたら、病院で耳にした新海くんのまごころの言葉が種となって、私の中で育ったからなのかもしれない。


まゆみを一人残しての一時帰国は、二つの大きな土産を抱えて無事終わった。日刊スポーツの連載をくれた佐藤くんと新海くんとの出会い。バルセロナに戻り、プラット空港からの帰り道、まゆみは私のみやげ話を喜んで聞いてくれた。そして、「いい一時帰国だったね」と言った。

嬉しくて長旅の疲れも吹っ飛び、どこかほっとした自分がいたのと、バルセロナが住みなれた我が家のような気分にもなっていた。また長屋での生活が再開する。時差ボケもあってか、その夜はなかなか寝付けなかった。



追記

新海くんは退院後、家業の印刷会社に就職し、現在は親の後を継いで社長だ。

私が5年間のバルセロナ留学を終えて帰国したときには、信じられないような大きな贈り物を用意してくれた。

「おかえりなさい。いま、これが一番必要じゃないかと思って。ぼくたちは、これがないとフットワーク悪いですからね。ちょうど買い換えるときでしたから、是非、使ってください」

そこには、1年以上の車検付きで、ホンダのオルティアがあった。もちろん手動式のアクセルとブレーキが着いた車椅子使用。帰国前のヨーロッパを周る50日間の旅で、蓄えをすべて使い果たし、無一文でバルセロナから戻った私はこの粋なはからいに感激し過ぎて、一瞬言葉を失ってしまった。

新海 学、もうすぐ49歳、いま週に一度、私と車椅子卓球で汗を流している。


To be continued

0回の閲覧

©2018 by ハチュマサ通信.