• 羽中田昌

フットボール・ラブ ♯4


「リージョに触れてみたい!」其の4 最終回



いよいよ最終回である。ここまでリージョに触れてきて、フットボールは分けられない、個性を持った生きている人間を「つなぐ」ことが私たちの仕事だ、と痛切に感じた。


驚くことにヴィッセル神戸はビジャまでも呼んだ。これから更にバルサ化が進むかもしれない。もちろん監督リージョは続投するはずだ。嬉しい、悲鳴である。

この「リージョに触れてみたい!」が来シーズのチームリージョを見るのに、皆さんのお役に立つことを願うとともに、リージョを理解する努力が、連係フットボールの成長につながると信じて其の4をお伝えしたい。それでは、最後をお楽しみください。




(トレーニングフットボール2011年7月号より)


フットボーラーとプレーについての考察④ フアン・マヌエル・リージョ



見えないモノは無いことにしてしまう行動主義やすべて数字に置き換えようとする機械論的な考え方は、一定のモデルを私たちに押し付けた。

そのモデルに従うことで限界が設けられ、自由も損なわれている。

このような切り離して細かく分けるやり方は、インタラクション(相互作用)が同質で一定条件の個人スポーツなら効果を得られるかもしれない。

古い科学のパラダイムの下では、自分たちの状況をかえりみないで成功したモデルをそのまま真似るのが横行している。

誤解のないように言うが私は科学をとても信用している。しかし科学は哲学と手に手を取って進まなければならない。

そうでなければ、人間の進化はないからだ。科学だけですべてをコントロールしようとする科学に従うわけにはいかない。

一方、その対極にある科学が生態学のパラダイムだ。それは次にあげる学問分野とその分野間の関係から生まれている。

認知学、複雑性の数学、生物学、分子生物学、生化学、代謝のプロセスの分析、システム論、ホリスティック論、認識論、構造主義、ゲシュタルト心理学、量子力学、形態学、カオス理論、神経科学、情報理論、神秘主義、オリエンタリズム、心理療法、健康技術、経済学のパラダイム、テクノロジー、政治学、精神性、教育学、文化、構造科学。

これらのすべてから生態学のセオリーが生まれたのは偶然ではないはずだ。生態学は生物と環境の間のインタラクションを扱う学問なのだから。


つまり生態学は地球のすべてのメンバーを繋げる研究をする学問であり、ここでは生態学的なユニットとしての有機的なインタラクションのあるコミュニティの話をしようと思う。そう、コミュニティとその繋がり方の話を…。

これ以上分けることができない生物が生態系コミュニティの一員であり、この生物は全体に調和していると同時に自律性を持っている。好むと好まらずにかかわらず、この生物こそ私たちなのだ。

私たち自身が自己組織化されているが、同時に、私たちは自己組織化する者でもある。なぜなら他者とインタラクションするから。

フットボーラーの自己組織化のための能力とは何なのか?

周りのすべての選手の成長を助ける選手がいる、逆に周りのすべての選手をダメにする選手もいるが、ここで昨今、盛んに言われている持続可能性というコンセプトを選手に当てはめてみよう。(これが書かれた2011年ごろは「持続可能性」という言葉が頻繁に登場し始めたころだと思われる)

持続可能性をフットボーラーに当てはめると、自分も満足しながら、チームやチームメイトのチャンスにも貢献できること。持続可能な選手なのか、そうでないのか?を比べて見てみると、とても少ない選手しか持続可能性をもっていないということが見えてくる。

チームのチャンスを生かしながら、自分のプレーに満足する選手はとても少ない。自分の役割の必要性を満たすことができる選手たちのほとんどが、周りの選手のチャンスを潰してしまっている。この傾向は日に日に強くなっていて、ゴール前に到達するフォワードの選手に特に多く見られる。プレーの継続の可能性を慮(おもんばか)らず、どんなプレーで終わるのがいいのか、悪いのか、彼らにとっては同じことなのだ。どんな終わり方でも彼らには関係ない。フィニッシュさえすればいいのだから。


選手はチームメイトを助けながら、自分も助けられていると理解しなければいけない。対戦相手に対抗するためには、最高の協力が不可欠だ。しかし、選手たちがそれを理解するのが日に日に難しくなっているが現状だ。選手が自主性(自分が自分であること、オリジナル、個性)を失うことなく、個人主義に陥らないで協力し合うことの必要性を理解させるための能力が監督には必要なのだ。

昨今、社会では自主性は軽視され代わりに個人主義が溢れている。私たちはまるでクレジットカードのナンバーのようだ。市場経済を尊ぶあまり選手はひっかきまわされ、1週間、毎日競争させられている。

チームメイトと競争をして自分のポジションを勝ち取って、対戦相手とまた競争する。対戦相手と競争するときになったらますます個人で競争し、対戦相手に対してコレクティブに競争していない。

選手たちは、良い社会的感情を建設することに苦労しているのだ。協力しなければいけないことは理解できるはずなのだが…。


これまで私たち監督が示し、語ってきたことがこのような事態を引き起こしているのではないだろうか。そう攻撃と守備の分離がそうさせたのだ。さらには守備の中でCBとSB、右利き、左利きにも分けてしまった。右利きの選手のためのフィジカルコーチや左利きの選手のためのフィジカルコーチまで用意するクラブさえあるほどだ。

行動主義はこのような不条理な状況をもたらした。専門家と呼ばれる人々は自分の仕事を得るためにバイアスをかける(ゆがめる)、分離する、壊す、ということをやりたがる。そして、チーム全体の目的から外れているのに個人の目的は達成したと胸を張って自らの成果を宣言する。こうやって、自分が重要人物になるための地位を確立しようとするのだ。

全体を細かく分けることには、コストがかかることを知るべきだ。実際の子供たちの発達環境はシンクレティズム(時間の経過が段階的ではない)なので、全体から部分へと学習する。なのに私たちは部分から全体を知りたがる。全体から部分を知ることは可能だが、部分から全体を知ることは叶わないのに。

それもフットボールのようなアクティブなことはなおさらだ。学習には序列はつけられないのが本当だ。私たちの知性はピラミッド型のようには建設されない、ビルを作っているのでもない。つながりを作っている。学習は、最初はこれで次はこれで…、というように階層的に続いていくものではない。

各選手はそれぞれが違ったやり方でシンクロしながら自己組織化しているのだ。

その中で、全員が想定できるガイドラインはいくつかある。そう、パート(部分)ごとに、その都度、優先順位をつけて考慮することは良いが、重要度に上も下もない。あることにとって最も重要なことが、他にとったら最も重要でないことはよくあることだ。(例えばフットボールには、フィジカルが最も重要だとか、テクニックが最も重要だとか、言えない。同様にメンタルや戦術に関しても)

フットボールに必要なのは自分とチームメイトを組織化する能力なのだ。良い選手はチームメイトの可能性を広げることができる。


これらのことから、選手たちと話をするのが重要だということに気づいてもらえただろうか? プランを具体化するために、それぞれ名前を持った選手たちと話をする。それ以上分けられないひとりの人間としての選手と話をする。そうやって対戦相手が何をしてこようとも対応できるチームの関係を創るのだ。

また、あなたが提案した守備の手段が、豊かになればなるほど攻撃が豊かになるという経験をしたことがあるだろうか。これは、とても興味深いことだ。あなたが豊かにするもの以外のものが豊かになるのだ。しかし、これはあくまでも認知機能を持った人間の話だ。私はチェスの駒の話はしていない。


意図したことと違うことをするのは、フットボールでは基本的なことであり、とても価値のあることだ。相手はポジションと身体の向きを感じ取って、抜け出せそうな可能性のあるサイドを切ってくる。その後、その相手の行為と逆を取るという判断を下すだろう。意図しないことが、次から次へと起こる。選手は頭の中を超えて期待に背く。それがフットボールなのだ。

最終的に選手が解決するための豊かなコンセプトを選手に与えるべきなのだ。私たちが作るゲームプランよりも、ピッチで起こることは、より純粋で自然で、私たちの知っていることよりもずっとずっと大きくて、何が起こるかわからない。だから私たちは、ただ選手たちに助言、刺激するしかできないのかもしれない。

私たちは、選手に知性を与えることはできない。知性とはその人の内部のプロセスのことだからだ。何も教えることはできないのだ。選手はそれぞれ異なったプロセスで学習している。ソクラテスやプラトンが言うように。

「知っていることしか知ることはできない。学習することは既に知っていることだけだ」


知っていることは、すでに選手の中にあることなので刺激することはできる。つまり選手の中にある戦術の豊かさ(多くの手段を持っている選手もいる、あまり戦術的でない選手もいる)を目覚めさせて、情熱を持たせるための会話が必要である。

チームに関係なく自由に好きなようにプレーする選手に対して才能があると言われるが、この考え方は追放すべきだ。チームに貢献しない才能は才能とは言わない。

私たちはよく攻撃の才能というが、守備の才能も必要だ。ミランのバレージは、ほんの数歩動くだけでライバル3人をけん制できる。アルゼンチン人CBのガジェゴは、すべてのボールを巧みに奪取する。その彼は言う。

「ライバルが遠くにいるときは、その選手の視線の先を見る。近くにいるときは、両足を見るんだ」

遠くにいるライバルは、その視線から意図を読み取り予測する。近くのライバルに対してはボール奪取するために足元を見る。これがフットボールの才能なのだ。


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