• 羽中田昌

フットボール・ラブ ♯2

最終更新: 2018年11月16日


「リージョに触れてみたい!」其の2


2010年©MARCA

リージョの考察と向き合っていると、あっと言う間に時間が過ぎていく。まるで周りの時だけが進み、自分だけが取り残されて行くようだ。でも楽しい。じっくりを大切にしたい。

ようやくフットボール・ラブ♯2のアップに漕ぎ着けた。少しでも解りやすくと努めたが、いかがだろうか。かなりの超訳にもなっている。その辺はどうかご容赦願いたい。


さて、前回の「リージョに触れてみたい!」では、監督がフットボールを分けている、というリージョの叫びを聞いた。私は本当に耳が痛かった。

チームづくりを進めていくと、気がつけば守備と攻撃とトランジションを分けていた。同じようにカラダとココロも…。

今回も耳の痛くなるリージョの鋭い考察やフットボールをとらえる新しい目をお楽しみいただきたい。


それに先立って、ここに一つだけ注釈を記させてもらう。

※日本でも、ボール奪取したDFが近くの味方にパスを繋ごうとして奪われると、監督や周りの選手やサポーターたちが「難しいことをするな!」と叫ぶシーンをよく見かける。「簡単にシンプルにプレーしろ」という意図だろう。それをスペインでは何故か「人生」をつけて「人生を難しくするな」という表現を使う。監督によっては激怒しながら連発することもある。クリアの場面を思い浮かべるとイメージしやすい。




(トレーニングフットボール2011年7月号より)


フットボーラーとプレーについての考察②        フアン・マヌエル・リージョ



「人生を難しくしない」※

これはグランドで面白いほど繰り返されてきた危ない表現だ。ある選手が、「俺は人生を難しくしないよ」と言うとき、いったいフットボールと何の関係があるのか、首を傾げたくなる。

「すべてのプレーで良い解釈ができているから大丈夫」とでも言いたいのか?

「プレーする前からやることはすべて決まっている」とでも言いたいのか?

監督も、DFに対して「人生を難しくするな」と言うとき、どういう意図で言っているのか。

プレーの話をしているの?何について話をしているの?


選手も監督も「人生を難しくしない」と言うときは大概プレーについては語ってはいない。

目の前にある状況に従って問題を解決し続けるのがフットボールの本質なのに。起きている状況とは全く関係なく、いつも同じ解決策=「人生を難しくしない」という行為を選ぶならば、フットボールをする必要があるのだろうか・・・?

この言葉は選手が次のプレーを考えることと次のプレー自体を奪っている。


最近のフットボールは後ろの選手のやることが限られている。そう、守るだけ。一方、前の選手はシュートしか意味がないと考えている(良いか悪いかは別として、FWたちは、とにかく前へ走ることしか考えていない)。

もし、後ろの選手たちがボールをもっても攻撃に結びつけるプレーをしたがらなかったら…

もし、前の選手たちがただシュートすることしか考えなかったら…

中盤の選手たちはいったい何をしたらいいのだろうか?

ストライキでもするしかない…。

私たち監督がこのような事態に加担しているのは事実だ。

“チームというのは守備の担当と攻撃の担当という二つのチームに分かれている”という意思表示を自覚なく監督が示している。

選手たちは試合のフェーズを攻撃か守備かではなく、自分の担当かどうかで分けてしまっているのだ。

また、監督やスタッフが”守備は良いが攻撃ができない選手”という表現を使ったら、すでにフットボールの話とは言えない。フットボールという競技にとって重要すぎるほど重要な選手の社会性(社会的感情)という要素を忘れてしまっているからだ。

社会的感情とは、自分が置かれた状況を他者との関係や社会・文化的な規範に沿って知らせる重要な感情である。

監督を長いことしてきたが、これほどまでに選手同士の社会的感情が不一致だったことはない。ミーティングでフットボールのグローバルさについて話をするとFW陣はこのように言う。

「うちの守備陣は、あまりにも簡単にゴールを許してしまいすぎるよ」

DF陣はこうだ。

「うちのFW陣は手を使たって入りゃしない」

守備的な中盤のピボーテたちはDFと一緒になって騒ぐ。

「ゴール前までボールを運んでもFW陣が決めないんだから、どうすることもできないさ」

FWに近い攻撃的な中盤たちは最後にこう言った。

「ミスター、毎回ゴール前には到達しているんだ。だから後は守備の問題なんだ」

結果的にフットボールのグローバルさを監督が役割ごとに分けてしまったがゆえに、選手たちは言い訳を見つけられた。

選手を役割ごとのスペシャリストに仕立て上げたスペシャリストが我々監督なのだ。それでいて良い解釈をしろ、と選手に言ってもできるはずがない。

グローバルなフットボールのコンセプトがあってこそ、唯一、良い解釈が生まれるのだから。守備と攻撃とトランジションを便宜上、区別することはできるが、実際に分けることなどできない。

問題は私たち監督が分けてしまったこと。プレーを分けることで選手の社会的感情も分断してしまった。DF陣は自分たちの仕事は失点しないこと、FW陣はたとえ4失点していても1点取ることが自分たちの仕事だと思っている。


私たちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのだろうか?

多くの既成事実を積み重ねた末のウソとは何なのか?

人はどのように学習して、どうやってそれらが最高の信念=偏見にとってかわったのか?

まず、自分たちが生まれながらの二元論者であることと、遺伝子の中にまで浸透してきた文化を知ることが重要だ。

決して無垢でまっさらな状態で生まれてきたと信じてはならない。

なぜなら、前のジェネレーションが無意識レベルにまで入り込んで道案内をしているから。古典的なパラダイムが私たちの中に居座っているのは、当然と言えば当然なことなのだ。

ニュートンやデカルトやアリストテレスという合理主義や決定論の創始者から生じた二元論は、分析的な思考のメソッドを作った。全体を理解するために複雑な現象を細かく分ける。要するに還元して分断して部分に分けるやり方だ。

なぜなら人は生きるのが怖いから…。

すべては相対的だという現実に不安を覚えて、絶対的な答えに頼ろうとするから…。

変化する砂の上を常に歩いているという事実と共存できないから…

理解できない、捕らえることができない、という事実と折り合いをつけられないから…

だから理解して安心を得るためにすべてを分ける。分ければ分けるほどよく理解できると考えているのだ。


しかし、その裏側には罠が潜んでいる。部分を分けて理解しようとすればするほど、分けた部分がすべてになってしまう。そう、他の選択肢や可能性が消えてなくなっていく。

例えば、ある器具をチームに売りたいという男がいた。素晴らしいことだ。しかし、彼は“サッカーは柔軟性と反射神経だけあれば良い”と私に言う。それは受け入れることはできない。

私たちはグローバルなコンセプトを持っていないので、ひとまず全体をバラバラにして安心したくなる。一人一人が部分の独裁者と化す。

人間さえも分けることができるかの如く…。バラバラにしてから、すべての部分を統合させるためにカラダとココロさえも分離させることを実現した。

だが部分を統合することはできない。なぜなら、部分はインタラクションするから足し算できないのだ。

私たちはフットボーラーの能力を足し算する話はするが、補い合うという話はあまりしない。それこそが選手に最も要求しなければならないことなのに。



其の2終わり To be continued

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