• 羽中田昌

フットボール・ラブ  ♯1


「リージョに触れたい!」其の1



5月24日、夢の移籍が実現した。アンドレ・イニエスタ日本上陸! 私の中では世界一のフットボール・コンダクターがヴィッセル神戸の選手となった。イニエスタは入団会見でこうコメントしている。

「皆さん、こんにちは。今日は私にとって特別な日であり、とても大きなチャレンジです。」

彼はいつでもどこでも謙虚なフットボーラーだ。

引き続き、9月17日、ヴィッセル神戸はまたもや驚くべきことをやってのける。新監督にフアン・マヌエル・リージョを迎えると発表。その後、就労環境が整い10月4日にリージョ体制が本格的に始動した。グラウディオラが尊敬し、慕うリージョの言葉。

「メッシは世界最高のプレーをする選手だが、世界最高のフットボーラーはイニエスタだと私は思う。イニエスタは周りのすべての選手のことが頭に入っており、彼らを使うこともできるからだ。」

イニエスタとリージョの共存。いったいどんな相互作用が生まれるのか。ワクワクドキドキ。耳をすませば、日本中から同じワクワクドキドキが聞こえてきそうな気がする。


私は思う。

この2つの奇跡をただ喜ぶだけで終わらせてはならない。世界と伍するための2度とないチャンスと捉えるべき。日本サッカーをより魅力的なものにするために謙虚に彼らから学ぶのだ。

たとえ目前の神戸が負けようとも(勝つことを願っているが)、目を背けない。フットボールは時間がかかるもの。2人がこよなく愛す連係のフットボール、その深淵に触れる努力を始めよう。

以下は、少々、古い文献になるがリージョの希少な考察が記されている。拙い翻訳だが共有させてもらう。難解で、また長文になるので、3回に分けてお伝えすることをご理解いただきたい。

これが、リージョを学ぶことへのとっかかりになることを願っている。

「ゴールのために、見えない強い糸で11人全員が繋がり続けることこそがフットボールだ。」

いつまでも私は、そう考える者の一人でありたい。




フットボーラーとプレーについて            フアン・マヌエル・リージョ


イントロダクション


フットボールについて深く考える度に、攻撃と守備とトランジションは分けることができない、という点に行きつく。結局いつもそうなる。

と同時に、私たちの頭(思考)の仕組みを勉強することから始めなければならいと気づく。

そのためには、いったん自分の頭を真っ新にする。必要に応じてパソコンをリセットするのと同じように。

学習するために、学んだものを捨てることに挑戦しよう。それこそが、未だ学習していないことに出会う道なのだから。


私たちは多くのアイデアを信念に変えてしまった。初めは単にアイデアだったものが、信念として定着すると偏見となる。

「ティーカップ」の寓話を紹介しよう。これは、ある生徒が偉大なマエストロと話をしているところから始まる。


〝生徒は自分の持っているありったけの知識でマエストロに討論を挑み、なんとか引き分けに持ち込もうとしている。その時、マエストロはお茶が飲みたいか?と生徒に尋ねる。生徒は飲みたい、と即答。

マエストロはポットをもってティーカップにお茶を注ぐが、カップがいっぱいになっても注ぎ続ける。当然、お茶はあふれてカップの外にこぼれ出していた。生徒は驚き、何のために? と尋ねた。マエストロは言う。

「これこそ、君が今やらなければならないことなんだ。カップにお茶を注ぎたくても空っぽにしておかなかったら、お茶は外にこぼれてしまうだけだよ。」〟


もし私たちが、捨てる勇気を持たなかったら、または、持っている知識を不動のものにしてしまったら、もはや前進はない。



「離れることや近づくことは、態度であり、距離ではない。」


まず、私たちの知性はどうやってつくられるのか?学習はどのように達成されるのか?自分たちの学習モデルはどこからきたのか?を考えてみる。

その上で、地球の成員である生きとし生けるものがどのように組織されているかを考察する。

教え込まれたり紙に書かれた現実ではなく、自分たちのリアルな内側を観察してから、フットボールに関連する結論に持って行けたらと思う。


私にも、信じ、育んできた知識があったが、ある日、ふと、それを疑うようになる。すると現実は、信じてきた世界とは全く違うと気づき始めた。明らかなウソが次々と姿を現したのだ。信じてきたことと、それを信じさせるために仕向けられたアイデアの多くは、ほぼ必要なモノではなかった。


こうして私は、別の道を求めて歩き出した。

君たちをこの旅に招待したい。しかし、いま持っているすべてを捨ててから旅を始めようと言っている訳ではない。なぜなら、経験こそが自分自身なのだから…。

さしずめ招待状の文言はこんなところだ。

「哲学と科学が同時進行するときにだけ人間は進化できる。よって科学的なアプローチだけでは正しい方向に進むことはできない。」

ただし、本題に入る前に、一緒に考えるコトと同じ考えを持つコトは同義ではないという立場を理解してほしい。


これまで、私たちが受けてきた学習モデルは、まるで人生の旗印のように、同じ方向を向き唯一無二の視点からつくられてきたと言ってもいい。その学習モデルの復習をしてみたい。

目的はそのモデルを回転させて眺めるため。万華鏡を回転させて覗いてみると全く違った模様が表れる。

もし選手とそのプレーをある地点から観察してみたら、もう一度、違う場所や身体の向きを変えて観察してみる。ここでも、これまでの観察の仕方を捨てろと言っている訳ではいない。可能性を広げるために他の場所から観察するのだ。

哲学者ホセ・アントニオ・マリーナが言う“最高の知性の表現”とは、まさに、視点を変えて可能性を広げることにほかならない。


従来の学習モデルの下で私たち監督は、以下のような表現をやめずに繰り返し、使い続けている。

「選手たちはプレーを読まない、読むことが下手になっている。」

言いたいことは伝わるが、プレーは読む(leer)ものではない。言葉は真に言いたいことを発するためにあるのだから正しく使われなければならない。

もう一度言う。プレーは解釈することはできても、読むことはできない。

なぜなら、読むとは、すでに書かれているものに対して行う行為であって、いま目の前で行われているコトに対しては使えない。解釈とはプレーに意味づけをする行為である。いま流れているプレーに意味を付与する、という能動的なもの。

だから私たち監督が発してきた「プレーを読む」という言葉は、書かれた過去を読むことであり、とても単純な行為だと言える。


これは二元論の問題でもある。

選手が良い解釈ができないと、監督たちは感じているのだと思う。しかし、自分たち監督が守備と攻撃とトランジションを分けておいて、選手に良い解釈をさせることなどできるはずがない。

私もコラムや講演や自分の思考の中でこの3つを分けてきた。分けるという行為は間違いなく、フットボールのグローバルさを妨害する。

グローバルさを損なう多くの他の表現が存在することも見逃せない。

「チームはとてもコンパクトで、ライン間の距離も上手く保たれている」

「常にブロックで動いている」

「バランスの良いチーム、ラインが揃っている、ソリッド、組織的、スペースを安定的に補い合っている」など。

私たち監督全員が共謀するかのように発する言葉が、真のフットボールの発展から自分たちを遠ざけているのだ。


近ければ近いほど、インタラクション(相互作用)しやすいのは当たり前のこと。選手間の物理的な距離ではなく、心理的な関係(インタラクション)に注目すべきである。離れるのか、近づくのかは態度(ふるまい)の問題であって距離の問題ではない。距離は明確に目に見えるが、選手間の真の関係は目に見えてこない。

選手間のインタラクションの結果として距離が生まれる。目に見えるものだけを追うと、このような錯誤に陥る。例えばラインが整然と揃っているのは、揃えることが目的ではない。一人一人の選手の振る舞いの結果としてラインが揃うのだ。


昨今の攻撃と守備の心理的分離のお陰で、ただ守備をしなければならないディフェンダーと、ただ攻撃をしなければならないフォワードが目立つようになってしまった。ディフェンダーは守備以外には貢献しない、フォワードは攻撃以外は貢献していない。


(トレーニングフットボール2011年7月号より)


其の1終わり To be continued


©2018 by ハチュマサ通信.