• 羽中田昌

エッセイ 韮崎生活 ♯16


16「長いもの紀行・うどん編」





やはり私の場合、うどんと言えば、讃岐うどん、ということになる。


2006年、Jリーグの監督ができるS級ライセンスを取得。その少し後の夕食時のことである。リビングの壁に貼られた日本地図を眺めながら妻のまゆみが言った。

「香川県なんかいいんじゃないかな。行ったことないし、行きたいなー」

「どうせ讃岐うどんがお目当てなんだろ。ライセンスをとったからって、話がすぐくるわけないけど、香川には、まだJのクラブもないし、いいかもな」

「へへ、ばれた」

それから暫くして、当時Jリーグを目指しはじめたばかりのカマタマーレ讃岐から本当に監督オファーが届きビックリした。四国リーグ? カマタマーレ? いずれにせよ初めて聞く名前であったが、これがプロのサッカー監督として初のオファーとなった。

GMの土居氏から電話をいただき、携帯電話を握る掌に力が入り、胸の鼓動が先方に聞こえないように冷静さを装いながら対応したのが懐かしい。嬉しくて、嬉しくて、思わず車椅子から立ち上がりそうになるほどで、「はい、よろしくお願いします」と即答したかったが、グッとこらえて「少し考える時間をください」と言って電話を切った。

さっそく、本広克行監督の「UDON」という映画を観ながら、オファーを正式に受けられるのか、現状を踏まえて思案した。最終的にどうなったのかは、途中省略してしまうが、メディアの仕事の契約と重なってしまったので、断念せざるを得なかった。1年が経過し、2度目のオファーで私は念願のカマタマーレ讃岐の監督となる。引き受けた理由は映画「UDON」にカマタマーレのトレーニングが数秒映ったからでもなく、まゆみの予言?のせいでもない。他の仕事の制約がなくなった以上、断る理由などどこにもなかった。なによりも2年越しのラブコールがありがたかったのだ。

こうして、うどん県に移り住み、監督初挑戦の傍らには、いつも讃岐うどんの食感があった。


ほぼ毎日、昼食はうどんだった。

午前中のトレーニングの帰り、コーチたちとカマタマーレを応援してくれるいくつかの店に寄った。特に私の注文回数が多かったのは、カレーうどんと釜玉うどん。

カマタマーレは釜玉とマーレ(海)の造語で、釜玉とは釜揚げしたばかりの茹でたてのうどんに生卵を絡めて、醤油やつゆなどで味付けをして食べる。茹で上るまでに少々時間は要するが、麺のコシというよりも少しぬめりとした食感を卵の絡みとともに楽しんだ。もちろん、コシのある麺にも目がなかったが。讃岐うどんは食べ方のバリエーションの豊富さもいい。毎日食べても飽きることはなく、まさにうどん文化なるものがあった。

カレーうどんは「たもや」の味を好んだ。カレーと麺の絡み具合が絶妙で、これは研究熱心なご主人がこだわり抜いた結果とも言える。

香川県民には笑われそうだが、実はカレーうどんには一家言ある。小学生の頃だから、かれこれ45年前から羽中田少年はカレーうどんが好きだった。卒業した甲府市立春日小学校の正門を出て、徒歩5分ほどのところに「江戸一」という店がありハマった。子供ゆえに、しょっちゅうというのは無理だったが、スポ少のサッカーの練習が終わった後に、よく親にねだったものだ。コシだとか絡みだとかといのは勿論分からなかったが、以降、カレーうどんを食べ続けている。その中でも「たもや」が私の最高となった。


讃岐うどんで言うところのコシとは、硬さや強さではなく、弾力性だと聞いたことがある。弾力性とは、しなやかさや喉越しのなめらかさだとか。これがつゆやカレーとの絶妙な絡みを生み出し、あの食感に通じている。

あるとき「たもや」に行くと、厨房の奥で捏ねた生地の上にビニールシートをかぶせ、ご主人が汗びっしょりになって足踏みしている後ろ姿を見たことがあった。コシを出すための作業である。讃岐うどんの奥の深さを感じた瞬間でもあった。


監督初挑戦は、コシのあるチームを作ろうと踏ん張ってはみたが、結果を残せず2年で終わった。しかし、仲間たちと夢中で戦ったキラキラ輝く経験は私の宝物。香川を去る日、住んでいたマンションからマイカーで「たもや」に寄った。

その時のカレーうどんの味は一生忘れない。うどんの麺と少し辛口のカレーと大切な思い出が、絶妙に絡みあっていた。


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